鐘が鳴っている。目を覚ましたら天使がいた。それとも女神だろうか。白い翼が生えていることは確かだ。柔らかい膝の上で、朦朧とした意識の中で、Nはそう錯覚した。女神は心配そうにNの顔を覗き込む。
ぼんやりした視覚が回復するとNは女神がノエルだということに気付いた。翼はレシラムのものだった。よく見たらジャローダもいる。ゾロアークとの戦いでボロボロになったままだ。レシラムも息が絶え絶えだった。レシラムとジャローダが瀕死直前だったのでノエルのポケモン図鑑は鳴りっぱなしだった。
「ノエル……?」
ノエルは泣いていた。Nの顔にノエルの涙が落ちる。観覧車に乗っていたときのように。
「よかった……目を覚まさなかったらどうしようかと思った……」
ノエルはジャローダをボールに戻した。そしてバッグからもう一つボールを取り出すとレシラムに差し出した。レシラムは黙って頷きノエルのボールに口付けた。眩い光に包まれレシラムはボールに吸い込まれた。その一連の行動はまるで騎士が姫に忠誠を誓う儀式のようだった。Nも彼女に続いてゾロアークとゼクロムをボールに戻した。
「……………………………………ボクとゼクロムが敗れた。キミの思い……真実……それがボクたちを上回ったか……」
「もういいの!Nは十分がんばったよ……。もう休んでいいの……。Nはもう自由だよ。一つの考えに囚われないで……!」
「レシラムとゼクロム……2匹がそれぞれ異なる英雄を選んだ……こんなこともあるのか。同じ時代に2人の英雄。真実を求めるもの。理想を求めるもの。ともに正しいというのか?……わからない。異なる考えを否定するのではなく異なる考えを受け入れることで世界は科学反応をおこす。これこそが……世界を変えるための数式……」
「やっとわかったの……?バッカじゃないの!」
ノエルは泣きじゃくりながらも強気で答えた。声は震えていたが。
「ああ……。ボクはバカかもしれない……」
「N……」
崩壊した王の部屋は静かだった。まるで2人が時空の流れから切り離されたように。永遠と思われる静寂……。だが残念ながら2人だけの空間に第3者が入ってきた。ゲーチスだ。
「それでもワタクシと同じハルモニアの名前をもつ人間なのか?ふがいない息子め」
「!」
ゲーチスの言葉にノエルは反応した。
(Nがゲーチスの息子……?)
「もともとワタクシがNに理想を追い求めさせ伝説のポケモンを現代によみがえらせたのは「ワタクシの」プラズマ団に権威をつけるため!恐れおののいた民衆を操るため!その点はよくやってくれました」
ゲーチスは西へ歩いた。太陽は沈んでいた。
「だが伝説のポケモンを従えたもの同士が信念を懸けて闘い自分が本物の英雄なのか確かめたいとのたまわったあげく、女に敗れるとは愚かにもほどがある!詰まるところポケモンと育った歪な不完全なトレーナーか……」
「Nをバカにしないで!!」
ノエルはゲーチスに抗議した。だがノエル膝枕されているNはあまりにも頼りない。
「トウコ・アララギ!…………いえ、ノエル・ピースメーカー!まさか滅んだはずのピースメーカーに生き残りがいたとは……。トウジ・ピースメーカーの忘れ形見ですか?役所ではトウコ・アララギの名前で登録されていたので気づきませんでしたよ」
(ピースメーカー……?生き残り……?なにを言っているの……?)
ノエルは目の前にいる大男がなにを言っているかわからなかった。ただ嫌な予感がした。
「アナタが伝説のポケモンに選ばれるとは完全に計算外でしたよ。ですがワタクシの目的はなにも変わらない!揺るがない!ワタクシが全世界を完全に支配するため!なにも知らない人間の心を操るため!Nにはプラズマ団の王様でいてもらいます。だがそのために事実を知るアナタ……邪魔なものは排除しましょう」
ゲーチスは懐から黒くて細長いものを取り出した。細長いものから刃が現れた。折り畳み式のナイフだ。悪の親玉はナイフを握るとその刃をノエルに向けた。
「「ノエル!!」」
チェレンとアデクが走ってきた。チェレンは目の前の光景と自分の耳を疑った。
「……支配だって?プラズマ団の目的はポケモンを解放することじゃ……」
「あれはプラズマ団を作り上げるための方便。ポケモンなんて便利なモノを解き放ってどうするというのですか?確かにポケモンを操ることで人間の可能性は広がる。それは認めましょう。だからこそ!ワタクシだけがポケモンを使えればいいんです!」
アデクの眉間に皺がよせられる。
「……きさま。そんなくだらぬ考えで!」
「なんとでも。さて。神と呼ばれようと所詮はポケモン。そいつが認めたところでノエル!アナタなど恐るるにたらん。ポケモンもさきほどの戦いで弱っている。ピースメーカーといってもしょせんただの小娘。そのボロボロの体では自慢の怪力も使えまい。さあ。命乞いをしなさい!ワタクシはアナタの絶望する瞬間の顔が見たいのだ!」
「ノエル!!」
Nはノエルを庇おうと2人の間に入った。
「そこをどきなさい!」
だが痩せているNが大きい体格のゲーチスに敵うはずがない。ゲーチスは実の息子に容赦もせずNを押しのけた。
「N!」
「誰がなにをしようと!ワタクシを止めることはできない!!」
大男を止めようとチャンピオンと少年が立ちふさがった。
「そうはさせん!」
アデクはナイフを奪おうと、ゲーチスはナイフを奪われまいと組み合いになった。両者ともがたいが大きいがここは経験がものを言う。1秒と経たないうちに闘いに慣れているアデクがゲーチスのナイフを弾く音が聞こえた。
チェレンはアデクが勝ったのを見届けると弾かれたナイフを拾った。
「女の子相手に刃物なんて大げさじゃないか?」
「ノエルには指一本触れさせないよ」
アデクの活躍により難を逃れたノエル。奥の手も失敗したゲーチスは醜い本音をさらけだした。
「ワタクシの目論みが!世界の完全支配がっ!……どういうことだ?このワタクシはプラズマ団を作り上げた完全な男なんだぞ!世界を変える完全な支配者だぞッ!?」
「さてNよ……いまもポケモンと人は別れるべきだと考えるか?」
Nは顔をそむけた。ポケモンは人と別れるべき…………長年信じていた理想だが今はそんなこと微塵も思っていない。Nが黙っていることをいいことにゲーチスはあざ笑う。
「……ふはは!英雄になれぬワタクシが伝説のポケモンを手にする……そのためだけに用意したのがそのN!!言ってみれば人の心を持たぬバケモノです。そんな歪で不完全な人間に話が通じるとでも思うのですか?……ポケモンの声がわかる予知能力者にポケモンの力を強化する怪力女!バケモノ同士お似合いですな!!」
「くっ……!」
悔しさでノエルの顔が熱くなる。自分はともかく好きな人をバカにされたのが許せなかったのだ。
「アデクさん。こいつの話を聞いてもメンドーなだけです。こいつにこそ心がないよ!」
「そうだな……。本当に哀れなものよ」
アデクはNの顔を見た。
「Nよ……いろいろ思うことがあるだろう。だがおまえさんは決してゲーチスに操られ理想を追い求めたのではなく、自分の考えで動いたのだ!だからこそ伝説のポケモンと出会うことができたではないか!」
Nは首を横に振った。
「……だがボクに英雄の資格はない!」
ノエルはそんなことないと言いたかった。だだそれと同時になにを言ってもNを落ち込ませるだけだと感じていた。ノエルは彼の名前を呼ぶことしかできなかった。
「N……」
真面目な2人を前にアデクは頭をボリボリかいた。
「そうかあ?伝説のポケモンとともにこれからどうするか……それが大事だろうよ!」
Nは再び首を横に振る。
「わかったようなことを。いままでお互い信じるもののため争っていた。だのに!なぜ!」
アデクは苦笑した。
「Nよ……お互い理解しあえなくとも否定する理由にはならん!そもそも争った人間のどちらかだけが正しいのではない。それを考えてくれ」
アデクとチェレンはゲーチスを囲んだ。ゲーチスは触るなと騒いだが格闘技を心得ているアデクには歯が立たない。チェレンもゲーチスの腕をつかむと先生のように仕切った。
「はいはい。邪魔者は退散!……ノエル!あとで迎えに来るからね」
こうして悪の親玉は2人に連行されて行った。
「……キミに話したいことがある」
Nはノエルの手を取った。手を取るのは初めてじゃないのだがノエルの胸は高まった。いきなり2人きりになったこともノエルのときめきに関係していた。
ノエルは王座まで連れていかれると思った。だが途中でNは足を止めた。
「まずはポケモンたちを回復させよう」
***
2人の英雄はレシラムとゼクロムを含むポケモンを手分けして回復させた。全てのポケモンを回復させたあとはジャローダ以外ボールに戻された。ノエルはジャローダもボールに戻すつもりだったがジャローダは残ることを選んだ。まるで2人の行き先を見守りたいかのように。Nもジャローダを拒否したりはしなかった。
ノエルの髪をブラッシングしながらNは語り始めた。
「キミと初めて出会ったカラクサタウンでのことだ。キミのポケモン――あのときはツタージャだったね。ツタージャから聞こえてきた声がボクには衝撃だった……。なぜならツタージャはキミのことをスキといっていた……」
「えっ!?」
ノエルはジャローダを見た。ジャローダは目をうるわせている。蛇だけどとても優しい目だ。
「一緒にいたいといっていたから」
「ジャローダ……!」
ノエルのまぶたに今までの思い出が蘇る。初めてジム戦で勝ったとき、初めて進化したとき、新しい技を覚えたとき、新しい仲間ができたとき、最終進化形態になったとき。ジャローダはいったいなにを言っていたのだろう。言葉は通じなくてもわかりあえる。ノエルとジャローダはいつだって喜びをわかちあっていた。だが改めて人間の言葉で伝えられると感動を覚えた。
Nはノエルの髪をゴムで結びシュシュで仕上げをした。髪結いは終了した。
「これでよし」
Nは先に立ち上がり、ノエルが立つのを手伝った。そして手を取ったまま歩き始めた。7歩ほど進むとNは振り返った。
「……ボクには理解できなかった。世界に人のことを好きなポケモンがいるだなんて。それまでそんなポケモンをボクは知らなかったからね……」
「N……」
Nは生まれたときからずっとプラズマ団の城で過ごしてきた。外の世界に出たのは数か月前。ノエルが旅に出た時期と同じだった。
Nはノエルを見た。
「それからも旅を続けるほどに気持ちは揺らいでいった……。心を通い合わせ助け合うポケモンと人ばかりだったから。だからこそ自分が信じていたものがなにか確かめるためキミと闘いたい……同じ英雄として向き合いたい。そう願ったが……」
Nは足を動かした。王座はなくなっていた。ゼクロムが現れたときに吹き飛ばされたのかもしれない。
「ポケモンのことしか……いや。そのポケモンのことすら理解していなかったボクが……多くのポケモンと出会い仲間に囲まれていたキミにかなうはずがなかった……」
ノエルは聞き手に回っていた。どう反論すればいいのかわからないのだろう。Nは王座が置いてあったところに立った。
「……さて。チャンピオンはこんなボクを許してくれたが……ボクがどうすべきかはボク自身が決めることさ……」
その言葉を最後にNはゼクロムをボールから出した。
(なにをするつもりなの……?)
「ノエル!!」
Nはノエルを呼んだ。急に大きな声を出したのでノエルはビクッとした。
「キミは夢があるといった……。その夢……かなえろ!素晴らしい夢を実現しそれをキミの真実とするんだ!ノエル!キミならできる!それじゃ……」
ノエルの胸に横から鋭い痛みが走る。今生の別れみたいな言葉を告げられてノエルは戸惑った。
(待って……!どこに行くの……?行かないで……!あたしを置いていかないで……!)
「サヨナラ……!」
「ダメエエエエエエッ!!」
ノエルは後ろからNを抱きしめた。最初はぎゅっと抱きしめていたが徐々に力が弱まっていく。ノエルの腕が震えているせいだ。
「いや!N!死なないで!」
「ノエル……?」
ノエルの頬を涙がつたう。ノエルはすがるように懇願した。
「ゼクロムを野生に返してどうするつもりなの?!……たしかにNはいろいろ間違えたけど……だからって自殺なんかしないで!」
「ノエル……」
「N……!あたし……あたしNのこと……!」
Nが人指し指でノエルの唇を押さえた。
「困ったな……告白はボクからさせてよ」
Nは帽子を取った。帽子を片手で握ったままノエルの顔に触れ、もう片方の手でノエルの前髪をはらった。
「ノエル……」
Nの唇がノエルに触れた。それだけでノエルの頭は真っ白になった。
「N……?」
Nの唇がノエルの顔から離れた。口付けされた額が熱い。
「ごめん…………。言いたいことがあるけど……色んなことがおこって……頭がこんがらがって…………どう伝えればいいかわからないんだ……」
「N……」
至近距離で見つめ合う2人。口づけをするとき唇をあと10cm下にずらせば唇にキスできたのにNはあえてそれをしなかった。
「ボクは死なない。ただ世界を知るため旅に出たいんだ。きっとどの地方でも人間とポケモンは仲よくしている。それをこの目で確かめたいんだ」
「N……!」
自分の勘違いにノエルは安心すると同時に恥ずかしくなった。早まっていたのはノエルのほうだったようだ。だがしばらくNと会えなくなるということがわかりノエルは落胆した。Nはノエルを元気づけるため思いがけない言葉を告げた。
「ボクはしばらく旅に出る。いつ帰ってこれるかわからない。…………ノエル!旅から帰ったら…………結婚しよう」
「え?」
ノエルの顔が真っ赤になった。顔だけでなく体全体が熱い。
「ええええええええええええええええええええっ!?」
ノエルの頭の中で『結婚』という言葉がぐるぐる回る。15歳の少女が対面するには早すぎる問題だ。
NもNで不安なようで自信なさげに訊ねた。
「今度は受け入れてくれるよね……?」
ノエルの脳裏に今まで断った数々のプロポーズが浮かぶ。
「い、い、いいいいいいいわよ!結婚してあげる!そのかわり浮気しないでよね!!」
「ありがとう」
Nは笑った。ノエルは婚約者の顔を直視できなかった。彼の微笑みはまるで大天使ミカエルのようだったから。
***
「それじゃあ行ってくる」
Nはゼクロムの背中に乗った。首にかけていたペンダントはない。そのかわり右腕にはノエルがつけていたシュシュがある。Nのペンダントはノエルの胸の上で踊っていた。
「うん……気をつけて」
ノエルはNがくれたペンダントに触れる。まだNは目の前にいるのに早くもペンダントに頼ることになってしまった。
「なるべく早く帰ってくるから」
「うん」
「ノエルになにかあったらすぐ駆けつけるから」
「うん」
「浮気はしないから」
「当ったり前でしょ!!」
「またね」
こうしてNはゼクロムとともに旅立った。最愛の人を残して。Nの姿が見えなくなると涙が込み上げてきた。ハンカチを取る暇がないのでノエルは手で乱暴に拭いた。ジャローダは主人の涙をぬぐいたかったか短い腕では叶わぬ願いだった。ジャローダは生まれて初めて自分の短い腕を呪った。しかたなくジャローダはノエルの顔を舐めた。
足音が近づいてきた。チェレンだ。ノエルは涙をこらえた。
「チェレン……」
チェレンは黙ってノエルにハンカチとティッシュを渡した。ノエルは素直に受け取り涙を拭いたり鼻をかんだりした。
「ゲーチスはハンサムっていう国際警察がパトカーで連れて行ったよ。アデクさんは2人に同行した。…………Nは?」
「旅に出ちゃった」
涙と鼻水が治まるとノエルはNが飛んで行った方向を見た。太陽はほとんど沈んでいる。空に思いをはせるノエルは恋する乙女そのもの。チェレンは幼馴染の変わりように苦笑いした。
「…………その顔、全然小悪魔らしくないぞ」
ノエルは振り返った。飾らず、気取らず、ありのままの彼女で。
「あたし、天使になっちゃった」